コラム/建築革命宣言!
第8回
僕の幼少期〜「果て〜し〜ない、大空と〜♪」 山中省吾 1999.06.29
「果て〜し〜ない、大空と、広い大地の〜その中で〜♪」っていう松山千春の歌がありました。
僕の幼少期はそんな感じです。 僕は北海道の大平原、十勝平野、広尾郡大樹町で生れ、幼少期を過ごしました。子供達がかくれんぼをしたなら、探し出すことは不可能というところです。 背丈よりも高い草むらの中にじっとしゃがんでいると、捜索願いモンです。近くで親戚が牧場をしていたので、牛や馬ともよく遊びました。その頃から僕は既存の組織や考え方に嵌らない、という才能を発揮していたようです。断片的な記憶しか残っていませんが……。
幼稚園に行ったのは入園式の1日だけです。母親から弁当を受け取ると、元気よく家を飛び出して探検に出かけていました。兄や姉のいる小学校へも行って、よく授業を見学していました。先生の質問に生徒よりも先に答えて、笑いを取るのが面白かったです。町のパチンコ屋へも行きました。転がっている玉を拾って遊びました。駅も探検のコースでした。父親に肩車をしてもらい、熊祭りも見ました。かがり火に囲まれた中で、熊が酒を飲んでいました。冬になると日方川(十勝川の支流)が凍りました。氷の上でも遊びました。小学校の運動場がスケートリンクになりました。スケートの靴は兄と姉の奪い合いで、末っ子の僕にはなかなか順番が回ってきませんでした。
家には綿羊がいました。買い物にいつも付いてきました。綿羊がいなくなったあと、ジョンというシェパードを飼いました。僕よりも大きな体のくせに、じゃれついてきて、いつもころげ回されました。卵を買いにお使いに行ったことがあります。帰り道が暗くなって、恐くて走って帰り、卵を全部割ってしまいました。小学校の入学式はランドセルを背負って行きました。まだ雪が残っていました。始めて学んだ担任の先生は、しのなが先生という男の先生でした。1年生の2学期に鳥取県に転校しました。青函連絡船と汽車を乗り継ぎ、途中東京の親戚に寄りました。
北海道で父親は商売をしていました。ミシンとか洋服を売っていました。売るのは上手だったけど、代金の回収が下手で、家計は苦しかったようです。父は趣味で田舎劇団を結成していました。少し変わりもんだったようです。けっきょく商売に見切りをつけて内地(親はそう言っていた、本州のこと)の親戚と共同経営で事業をはじめるために、今住んでいる米子にきました。
母親は自分のことを「文学少女」だったと言っています。小さい頃はいつも寝る前にふとんの中で本を読んでくれました。「母さん、かわいそうだね…」と僕はよく泣いていました。母は澱粉工場に仕事に行き、ときどき焼いた澱粉のかたまりを持って帰ってきました。父親はいなくても、母親がいれば子供はちゃんと育つ、米子に移って事業が順調になったころに父親はガンで亡くなりました。僕が小学校の6年生のときでした。既存の組織や考え方に嵌らないという僕の才能は、母を支えなければという独立心も加わり、さらに磨きがかかっていきました。
その後、少年時代、青年時代の「波乱万丈」な人生は、また別の機会に譲るとして、北海道で過ごした幼少期は、今の僕にとって人間形成の基底部分を作っていると思います。人間も自然も一体。自分も宇宙も一体。人と人も一体。すべてのものが生命の深い部分で……一体である。草むらで遊んだ子供たちの足の下、わずかなその面積の中に一億ともいわれる微生物がいます。小さな虫を発見すると、子供たちはすぐに遊び相手として歓迎します。触覚の動きも足の動きも、飽きずにいつまでも観察します。草の葉の模様を観察し、手触りも確かめます。木の肌の感触も、川の水の感触も、子供たちに「遊ぼう」と呼びかけてきます。遊び疲れたら空の雲が話し相手をしてくれて、そのうちに草むらは柔らかなベッドに変わります。優しい風に包まれて……。
ある部分までは説明することができます……。人間も自然も一体。すべては独立し、個性を主張し、それでいて調和しています。北海道の長い冬を耐え忍んで、春になれば草木が一成に萌え出でてきます。朝の光に答えるように鳥たちは合唱し、ミツバチは会話をします。自分も宇宙も一体。1メートルに満たない子供の中にも、宇宙が全部詰まっています。無限の可能性を秘めた子供たちも、地球の公転と自転という運行に合わせて、眠り、目覚め、活動します。人と人も一体。見えない意識の下で、何かを共有しています。すべてを育み育てる何かがこの宇宙には充満しています。こころの周波数を合わせると……。きっとキャッチできます。
信じるか、信じないか、最後は実感です。北海道の幼少期を過ごしたことは、僕にとってこのうえない貴重な体験です。
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