コラム/建築革命宣言!
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第11回

鬼門に対する考え方〜それでは地鎮祭は?〜戒名は? 山中省吾 1999.07.28

F邸完成までのドキュメント〜第4回打合せ記録に目を通すと、「鬼門を気にする」という施主の意見が書いてあった。施主の要望をすべてイエス、イエスと取り入れることが、施主の満足=ハッピーな生活につながるとは思えない。何故必要なのか、何故不必要なのかを一緒になって考え、選択すべきことと、切り捨てるべきことを納得のいくまで掘り下げることが、私たち建築家の仕事であり、そこにこそ存在意義があると思う。建築家の考えを押し付けるということではなく、専門化としての知識を駆使し、さらに必要な情報を集め、施主にとってもっともハッピーな結果になるように、知恵を絞る努力をしようということである。

さて、日本にとって中国、韓国は文化の恩人であり、文字も建築も仏教も、いろいろな文化を日本は大陸から学び取り入れた。建築における家相も、やはり中国から伝わってきた。家相の中でも、鬼門というのは一般によく知られている。では、鬼門とは何でしょうか。由来はこのように云われている。「鬼の門」即ち、その方角から恐いものが現れるというもの。中国(漢民族)にとって、北東の方角には騎馬民族がいて、いつも侵略の恐怖を味わってきた。だから、その方角に門を作って開放するなどとんでもない、というのが基のようだ。また、その方角から季節風に乗って疫病をもたらすということもあったようだ。

家相には、科学的に根拠のあるものも多くある。現代のように電気を使用したり、機械的にコントロールできる時代ではないので、いかに自然と共存するか、経験的な知恵を働かせた。トイレなどの汚物は、西日が当たったりして腐敗しやすい場所を避ける。これは理に叶っている。台所など食料を保管する場所もそうだ。南西の方角、これを裏鬼門という。腐敗、悪臭を避けるための経験的知恵の産物である。

ところが現代は、冷蔵庫、水洗トイレ、換気扇、エアコンなどの出現により、機械的に解決できることもたくさんある。光、風、周囲の状況などを考慮して自然に適応させた計画は、結果的に家相と合致するところが多い。ただし、あまりに細部までこだわると、家相と合致しない部分もでてくる。まして都会など狭い敷地条件の場合は、計画自体が困難になる。大事なことは「何のために」という本来の目的である。形式にとらわれて不自由になるか、目的を見定めた上で、自由に発想するかではなかろうか。

家相に関して、もう一つ考えておかなければならないことは、家相を占うことを職業にしていた人がいた、つまり、飯の種にしていた人たちがいた、という歴史である。本物のすぐ近くに偽者は居たがるものだ。できる限り真実を織り交ぜないと、説得性が無いということを知っている。それともう一つ、情報開示型ではなく、情報独占型に進み、自分たちを権威付けようとする。権威の影から「災いをもたらすぞ」とささやくのを常套手段とするのではないか。

家相にかかわらず、建築における儀式、形式で、当然のように思って受け入れてきたことは他にもある。誤解を覚悟で言うと、地鎮祭。工事中の無事故を祈り、完成後の繁栄を祈願する儀式。人間にとって自然な感情の発露であり、これ自体を否定するものではない。むしろこのような祈りを伴った感情を、現代人はけっして失ってはならないと思う。問題は神主が介在するところである。江戸時代、人民を管理するために、土着信仰の神道や外来宗教の仏教が行政に組み入れられたという歴史はご存知でしょうか。結婚式や地鎮祭などの慶事は神道が、葬式などの弔事は仏教が担当した。事業(職業)として安定するために報酬規定も整備され、さまざまなアイデアが生れた。戒名、塔婆などがそうである。

本来の目的、人間の自然な感情の発露として、工事の無事を祈る、亡くなった知人の追善回向をする、この心が大事だと思う。それは、祈りの専門家に報酬を支払って、目的が達成されるものではないと思う。まして、報酬の多寡によって結果に差がでるものではない。目的の如何にかかわらず、セレモニーとして、皆がしているから私もする、というのであれば当人の自由であり、気持ちしだいであることは言うまでもない。 

小生は思う。もし、家相(鬼門など)が世界中に通用する根拠のある考え方なら、受け入れよう。しかし、日本だけの狭い考え方なら、まして、もともと発祥の地である大陸の文化と、内容的に大きなずれを生じているのなら、小生はすべてを受け入れることはできない。それによって生活が不便になったり、余分にお金がかかるようなら、あまりにも本末転倒ではないかと思う。
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