なんと力のある文章か! 立て続けに読んだ。200年前(1802〜85)に生れた19世紀の巨人〜ヴィクトル・ユゴー。ヒマラヤのように大きな存在。どこから手をつければよいか…。前人未踏の山を前にした、登山家のため息のように。それでも登はんルートを探して、頭の中はめまぐるしく回転する。そんな感じ。ウィンドサーフィンに一時のめり込んだ体験に即して表現するなら、台風が近づきつつある日本海を前に、「コヤツ(海)いつのまにこのように強暴な生命力を身に付けたのか、はたして今海に乗り出せば、オレは生きて帰れるのか…」風の向き、強さ、波の怒りを懸命に読もうと、極限の選択をしている、といったところか。
「九三年」には個性の強い3人の主役が登場する。冷徹で鉄の男、王党派の将軍ラントナック。人民に命を捧げる知将、共和派のシムール・ダン。若き革命家、新しいヒューマニズムの灯を探る、勇気と情熱のゴーヴァン。さらに忘れてはならないのは、無名の百姓女。ある意味では、この物語を貫く真の主人公は無名の百姓女なのかもしれない。「新平家物語」(吉川英治)に登場する主役、清盛、義経、頼朝の影にあって、時代の変遷を見つめ続けてきた無名の庶民、阿部の麻鳥、よもぎ夫婦とも重なった。新しい時代の覇権をめぐって、歴史は勝者と敗者を選別する。その中にあって、常に変らないものは何か…。
ブルターニュの森に迷い込んだ百姓女。物語はここから展開する。
「おまえの亭主を殺ったのは、青(共和党)か白(王党)か…」
「私の亭主を殺ったのは、鉄砲玉です…」
物語のクライマックスで、この百姓女は再度登場する。燃え盛るヴァンデの城。炎の中に探しあぐねた3人の我が子。影絵のように映る。とたんに彼女は恐ろしい叫び声をあげる。母親にしか与えられていない、言いようのない苦悩の叫び、これほど獰猛で、これほど感動的な叫びはない。この叫びが主役である3人の男の行動を変える。結末は? それは皆さんご自身で是非お確かめに。
ユゴーの著作でもっとも知られているのは「レ・ミゼラブル」であろうか。ジャン・バルジャンの名は、本の題名以上に知られているかもしれない。中学生のとき、文化祭でも演じたことを覚えている。残念ながら私は主役にはなれず、その他大勢の一人だった。「嗚呼無常」という要約本を基に演じた。その後10代後半に完全翻訳本を読んだ。30年ぶりに手にした文庫本には、至るところに赤ペンで線が引かれていた。その当時に感動したのは、こんなところだったのかと、今の自分ならどこに感動するのかを比べながら、2重の楽しみで読んだ。
貧しさの故に一切れのパンを盗み、19年間の獄中生活を余儀なくされたジャン・バルジャン。ユゴー自身も19年間の亡命生活を経験している。ナポレオン3世の反動的な政治を攻撃し、進歩的な青年達をペンの力で支援した。詩人であり、政治家であり、行動の人であった。イギリス海峡の孤島で、孤独な亡命生活を創作に明け暮れて過ごした姿を思い起こすと、深い感動を禁じえない。私自身文学者でも歴史家でもない。一読書人である。感じたままを自由に述べることが許される。私自身の範疇、私自身の器の範囲でしか読みきれないことを承知のうえで、私自身が感じた人間ユゴーを語ってみる。
「自由が祖国にもどるとき、私もまたフランスにもどるであろう」と述べたユゴー。壮絶な闘いであり、革命だったと思う。祖国(あるいは人類)の自由を求めて、ペンを持って革命に参加した。東洋において、ガンディーの闘争を詩や音楽で支援した、タゴールとも重なり合う。何が真実で何が偽者か、歴史を検証し、自身の内面を検証した。巧みな表現を求め、亡命中も毎日6時間の勉強を課したという。ゴーヴァンもジャン・バルジャンも青年マリウスもユゴー自身の中に存在していたのだろう。同じ人間の中に相矛盾する人格が存在する。生命の深淵に流れる潮流が、人間の五感というモニター画面に映し出される。ユゴーはそれを垣間見たのか。過去の経験、置かれている環境、取り巻く状況によって、人はさまざまに反応し変化する。表面的には矛盾していても、常に変らぬ何かが存在する。憎しみが強いほど、愛が深くなり、悲しみが深いほど、喜びが大きくなる。王も、教会も、軍隊も、民衆も、あらゆる権威の中で、一人の人間の生命より深く大きなものが存在するのであろうかと…。
闘いであったればこそ、あのように壮大な表現がなされたと思う。歴史の主体者として革命に参加したからこそ、あのように文字が躍動したのだと思う。「過去の遺産や目先の利益に振りまわされるな!」「もっと大きな流れで捉えようではないか!」「安逸を貪るな!革命だ!闘争だ!」
「歴史を創るために、命をかけて闘おうではないか!」と、まるで予言者のような風貌で、ユゴーが呼びかけてくるような気がする。 |