コラム/建築革命宣言!
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第21回オープンシステムとCM (株)フリーダム・リノ
山本一晴
2000.05.16

 わが国では数少ないCMに取り組む設計事務所の集団オープンシステムネットワーク会議。この集団に関する情報が連載されることになった。オープンシステムとはいったい何か、また設計事務所の集団を支援するオープンネット(株)とはどのような会社なのか。理解を早めるために連載開始にあたり、この会社が発足するに至った経過を紹介する。

(文中敬称略)

既存のシステムへの疑念
 オープンシステムを始めたきっかけは8年前にさかのぼる。鳥取県米子市のあるレストランの改装工事の設計を引き受けた山中設計(山中省吾代表)は、工事の発注の段階で厄介な問題に直面した。発注者であるレストランのオーナーは6月開業を強く希望し、またそのための広告や案内状はすでに印刷に入り、竣工までの猶予は1ヶ月余りしかなにのに、工務店はどうしても2ヶ月の工期を主張する。バブル景気がかげり始めた時期とはいえ、業者側はまだまだ強気であった。板挟みになった山中は苦肉の策を施主に提案した。知り合いの専門工事業者に呼びかけ、工務店に頼らず自分たちで工事をしてしまおうというのである。それで開店に間に合うならという施主の同意を得て、早速業者を集めての鳩首会議で工程を決めた。工事はトントン拍子で進み、工期より3日早く竣工してしまった。これまでの監理の経験から、工事は1ヶ月もあればできるはずという自信があったので、工期内で納めたのは当然という感じであったが、業者からの請求書を集計して驚いた。何度計算しても工務店が提出していた見積書をベースにした予定価格の7割程度にしかならないのである。
あるべき姿を追い求めたらCMだった
 施主は大いに喜んだが、山中の胸中には建築工事価格への疑念が沸々とわき、その疑念は一つの決心へと結実していった。「設計事務所がもっと現場に関われば、既存の請負システムをオープンにすれば、建築コストはもっと下がるはずだ。」彼は、ゼネコンがらみの設計からきっぱりと決別した。取引先のゼネコンや工務店の反応は冷ややかであった。それでも山中は直接専門工事会社を集め、設計事務所の管理のもとに工事を遂行する手法を「オープンシステム」と名付け、「建築革命」を宣言した。とはいえ、これまでの日本の建築請負方式にない手法であったので辻説法のようにセミナーを繰り返し、「発注者にわかりやすい工事価格、工事の内容」を訴えるより他に手はない。それから第1号と呼べる仕事に結びつくまでは苦労の積み重ねであった。やがて、「山中が面白いことをやっている。」といううわさも広まりはじめ、住宅を中心に仕事の依頼も増えていった。
 一途で地道な努力は4年後、日本建築学会のPM/CM特別研究委員会の事例報告セミナーで、CMの事例として堂々と公表されるに至った。山中は自分の考えた手法がCMであると意識して新しいシステムを作りだしたのではない。建築業者の都合だけで成り立つ既存のシステムを脱却し、「どうすれば発注者が納得できるシステムになるか。」という、いわば本来の姿を求めてきた結果、それがCMと呼ばれる方式であったというにすぎない。それは山中が信念として貫いてきたことが決して特異なものではなく、発注者を主眼として考えると至極当然の発想であったといえる。
建設業界の梁山泊
 オープンシステムが建築専門雑誌などに紹介されるようになると、意気に感じた設計事務所が、次々と山中設計を訪れるようになった。山中はそのような設計事務所には誠意を持って応対し、互いに思いの丈を語り合う中で、成功しつつある自分の手法を惜しみなく披露した。彼の開放的な姿勢は、接した事務所を共感から賛同へと変え、現在のネットワークの核となる岐阜県、岡山県それに大阪市の2社の設計事務所が「建築革命」を宣言。それぞれの地域でセミナーを精力的に開いていった。97年秋には、折からブームになり始めたインターネットを利用する山中設計を含む5社の情報交換ネットワークが生まれた。それから1年足らずの間にオープンシステムに参加する事務所は、主に西日本に限られたが13社に増えた。理念は崇高だが実践は険しい。一つ一つの設計事務所がそれぞれ単独でオープンシステムを展開しようとしても「一括請負方式一辺倒の長い歴史の壁はたやすく崩せない」という認識が支配的になってきた。特に建材の複雑な流通過程と、建物の補償の問題は大きい。前者は大量発注に有利であり、後者はゼネコンや工務店が企業力を背景にリスクを負っている。このハードルをクリヤするには、流通に対しては共同購入やOEM、補償に対しては保険が考えられる。いずれも零細設計事務所では太刀打ちできない課題だ。これを機に情報交換にとどまっていたネットワークを組織化することにした。
大手損保会社が動いた
 どのような組織にするか、その議論のために5社は何度も集まった。一種の協同組合のようなものが考えられたが、山中の腹は会社組織に決まっていた。資金的に可能なのは「有限会社」であったが、資金提供を申し出る知人らの薦めで「株式会社」にすることにした。さらに彼らの助言に従って、山中は不眠不休で事業計画書をまとめ上げ、山陰合同銀行の系列でベンチャーキャピタル専門のごうぎんキャピタル(株)に持ち込んだ。ごうぎんキャピタルはこの事業計画に将来性を認め、自らも投資をするとともに監査法人トーマスを顧問に据えて、建材の共同購入やOEM、そのほかオープンシステムを展開する設計事務所を支援する業務をメインとするオープンネット(株)が立ち上がった。だが、補償の問題は依然手つかずのままだった。
 大阪市に関西保険サービス(株)という会社がある。建設関連業界の団体保険を取り扱っているこの会社のオーナーである太田は、ある週刊誌が特集していた記事からCMに興味を持ち、これからの建設業のあり方にCMが不可避であるのではと予感し、密かに研究を始めていた。彼にオープンネットが出会えたのは全くの幸運といってもいい。オープンネットの希望を聞いた太田は早速日本でも最大手の損保会社にこの話を持ち込んだ。建設業界の地殻変動を予知したこの損保会社の担当者は、社内をくどき回って奔走し、完全分離分割発注に対応できる補償保険メニューを構築した。この補償制度があれば、「システムの良さはわかるが、いったい誰が補償してくれるの?」といった問いに苦慮する必要はなくなる。
 アキレス腱がなくなって、大々的に会員の増強に力を入れることができるようになったオープンネットは99年1月下旬、経団連会館で記者発表を行った。30社余り集まった記者の前で山中が呼びかけた熱い思いは、メディアにのって日本全国を駆けめぐった。メディアでオープンネットを知った設計事務所からの申し込みが増えた。山中は彼らのもとに出向き、いちいち面談した上でオープンシステムの主旨を本当に理解し、賛同する事務所だけを会員とした。
 この記事を書いている1月現在、オープンシステムに取り組む設計事務所は全国で57社となっている。
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