コラム/建築革命宣言!
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第39回

〜IT利用と住宅建設〜 「住宅産業に一石を投じたオープンシステム」(5)
山中省吾 2001.06.12

設計事務所が工務店に?
 ここで疑問が湧く。「設計事務所が分離発注で工事を行なうということは、結局のところ、設計事務所が工務店になっただけのことではないか。」
 確かにオープンシステムは業務の内容を、工務店や住宅メーカーが行なっているところにまで範囲を広げた。だからといって、私たちは工務店になろうとは思っていない。たとえ同じ作業を行ったとしても、立っているところはまるで対局に位置しているからだ。
 何故なら、オープンシステムでは「請負う」ことはしない。「建築士業務委託契約」を交わし、「建築主の代理人」として働く。この違いは大きい。
 「サービスで設計を行っても、受注した工事で回収すればいい。宣伝広告費もモデルハウスの維持費も、工事金額に含ませてしまえば分かりゃしない。こっちの建材のほうが利益を取れるから薦めよう。下請けを叩いた分だけ利益が増える…。等々。」
 これらのことは「工事一括請負」だから可能なことなのである。「業務委託契約」ではできるはずもないし、しても意味を持たない。結局、「工事一括請負契約」は建築主にとって良い方式というよりも、多重下請け構造の中で、元請会社にとって最も都合の良い方式に過ぎないように思える。
 もし、そうではないと言うのなら、建築主に提出する見積書と実際の金額を記入した実行予算書の、2種類つくる必要がどこにあるのだろうか。
 建築産業(ここでは元請会社のこと)の売り物は「技術力やノウハウ」だ、という自負があるならば、原価、経費を明確にしたうえで、技術料、ノウハウ料を提示すればよい。
 建材販売業も兼ねているというなら、建材の仕入に上乗せして見積もりを提示することになり、商社機能も兼ねているというなら、契約したものを、そっくり他社に丸投げして、差額を手に入れることになり、専門工事会社(下請会社)の斡旋取りまとめも行うというのであれば、下請けに外注する工事代金に上乗せしたものを請求することになる。
 ITとは、今までは専門家が独占していた情報を、誰でも手にするということである。事情の分からない素人は口を挟むな、専門家に任せておけば良い、ということが通用しなくなる。

ITは社会を映す鏡
 ある住宅メーカー元最高幹部の話。受注が伸びない。ライバル会社に水をあけられる。そのときに何をしたか。営業部のスタッフを呼び、皆の見ている前で会議テーブルの上に責任者を立たせる。辛辣な言葉を容赦なく浴びせかける。プライドをズタズタに傷つけられた営業の責任者は、「こんな思いをするなら、土下座してでも契約をとるほうが、まだ、ましだ。」という気持ちになるらしい。
 まるで、手柄話のように、彼は話をした。利益を出さなければ企業の価値はない。社員を幸福にすることもできないと。
 「国のため」という価値観で国民を統一した時代があった。それが、「企業の利益」という価値観に置き換わっただけのことである。あまりにも短絡的な思考は小生の受け入れるところではない。経済的勝者だけが評価され、個人が埋没し、組織に飲み込まれていく。際限のない弱肉強食の経済競争は、その果てに何が待っているというのか。
 際限のない弱肉強食の経済競争を、21世紀にそのまま持ち込めば、人類はどこかで破綻する。小生とて、経済活動を抜きにして企業は存続しえないことくらいは、十分承知している。では、弱肉強食の経済競争に歯止めをかけ、バランスを保ち得るのは何か。
 それは、本来人間が持っている「創造の喜び」であり、「職業を通して世の中に役に立っているという実感」ではなかろうか。つまり、すべてに勝る価値を個人に置かなければならないと、小生は考える。それを前提に企業活動が存在すべきであり、「ひとりの人間は地球よりも重い」という価値観を確立することが、弱肉強食の経済競争に歯止めをかけるに違いないと確信する。
 建築主と向き合うことのない設計者には、創造の喜びは生まれない。土下座をして契約する営業マンには、世の中に役立つ実感は生まれない。専門工事会社を搾って利益を出すのは、自らの首を絞めているに等しい。やがて、かけがえのない人材を失うだろう。
 ITの時代とは、社会の様相をありのままに映す鏡の時代。今はまだ雲っているが、IT時代がこの鏡を磨きはじめたのである。やがて明鏡となって、住宅産業も「ITという鏡」に鮮明に映し出される。良いことも悪いこともすべてさらされる運命にある。そのとき、住宅産業はどのような姿を映すのだろうか。
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